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24件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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1955-12-16 第23回国会 参議院 社会労働委員会 第6号

これもカラカンダ地区作業状況の中にあるごとく、ノルマがやはり大きいのであります。小さい日本人には露助の要求するところの同じノルマをやることはできません。これも非常に苦しみ、それからタイセットにおきましてもやはり同じく伐採並びにソ連軍事基地軍事用鉄道として目下、おそらくもう開通になったかと思いますが、バム鉄道、これの建設作業等に従事し、五四年の十月ハバロフスク地区に護送されました。

竹矢清吉

1953-12-12 第19回国会 参議院 厚生委員会 第3号

カラカンダ地区は大体一般ラーゲル、これをカル・ラーゲルと言つておりまして、これは反革命罪を除いたほかの人間が入つております。刑事犯が主です。それと特別ラーゲル、これはカラカンダ周辺に約九つぐらいあるようです。私のおりましたスパスクは第九分所という番号が入つておりました。で、一般ラーゲルのほうにいる日本人のことは、いるかいないか、それも私は全然知りません、隔絶されておりますから。

鈴木拡

1950-04-28 第7回国会 参議院 本会議 第47号

死亡者確認だけでも、二名の女性を含み二千七百名に及んでおるのでありまして、又一方病人は九名と発表されたのでありますが、現在ナホトカに残された病人八名、カラカンダ地区二十一名、ホール病院八十五名が現存することが確認されておるのであります。この外に北千島よりカムチヤツカ方面に移送された者三千名以上あると言われ、樺太には三千五百名以上の残留しあることが証言されております。

岡元義人

1950-04-28 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第21号

そのときの民主運動の段階から申しまして、特に三十九師団であつたところのアクティヴィスト諸君は、これに積極者に参加いたしまして、我我の手で我々の罪状並びに我々の幹部の摘発鬪争をやろうという声が、ほぼ全カラカンダ地区に広まりまして、このカンパニヤが日本の各分所において持たれたわけであります。

池田正人

1950-04-28 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第21号

カラカンダ地区で、いわゆる徳田要請、もう徳田要請というのは日本に帰つて来られた方はしばしば聞かれて知つておられると思います。それに対して、その九分所において質問をした植松君について、現在どこに残つているか、あなただ立つて来られるときはどこにおつたかということを知つておられますか。

岡元義人

1950-04-27 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第28号

○井手(光)委員 問題はカラカンダ地区その他の地区において起きたことを調べておる。日本にあつたことを調べておるのではないのです。問題をはき違えては困る。タス通信の発表やあなたの気持を調べておるのではない。カラカンダ地区においてどういう要請が行われておつたかという具体的事実を調べておるわけでありますから、その具体的事実が事実であつたということはこれはやむを得ないであろう。

井手光治

1950-04-27 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第28号

われわれもカラカンダ地区におつたことがないのでありまするから、カラカンダ地区の具体的な事実によつて判断するより仕方がない。これは押問答である。あなたは否定しておるし、こちらは肯定しておるのであるから……。具体的な反証をあげるためには、カラカンダ地区でどういう事実が行われたかということを調べるよりこの問題の結論が出て来ない。

井手光治

1950-04-13 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第25号

この問題はカラカンダ地区の問題で、あの人と直接には寝食を共にしませんが、あの人の問題についてまず触れましよう。あの人は通訳もしておりましたでしようが。あの人のほんとうの仕事は、ロシア語ではフンクチョネール、これはカラカンダ地区工作員というのがほんとう名前です。それではカラカンダ地区工作員とはどんなことをやるかといいますと、たとえば東京を小さくした東京地区と同じようなものです。

加藤幸治郎

1950-04-06 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第20号

すなわち私はあくまでも直接耳には聞いていないのであつてアカハタ紙に対し提出した抗議文の中で言つているように、カラカンダ地区では明瞭に政治将校の言を日本人通訳の口から、日共から反動は帰さないでくれと言つて来ていると解釈のできる言葉を聞かされたわけであつて、この言葉そのもの、あるいは意味においても右左いかようにも解釈されているので、これは通訳に当つた菅自身大よそあやしげな態度をとつているのだから、私個人残留

小島清

1950-04-06 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第20号

小島証人 それはカラカンダで一番古いのは菅氏一人ですから、カラカンダ地区ではあるいはそうかもしれません。しかしわれわれはあつちこつち行つて来ましたが、ベグワードもタシケントも、向うでデモクラートあるいは民主グループというのは、これはもう完全な主義者——主義者というのは共産主義者以外にはない。

小島清

1950-04-04 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第18号

日高証人 通訳菅季治という通訳——その当時菅はカラカンダ地区のたしか民主委員をやつておりまして、カラカンダ地区では工作委員言つてつたのでありますが、ほとんど九十九地区の特権は握つてつたと思つております。その菅季治氏が通訳を兼ねまして、政治部将校の話の内容をわれわれに伝えたような次第であります。

日高清

1950-03-31 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第15号

なお、四月一日にウォロシーロフ地区引揚者繁澤富男君、イズベストコーワや收容所引揚者上村宗平君、四月三日にカラカンダ地区引揚者山口茂君、同じく久保田善蔵君、同じく小笠原唯雄君、同じく日高清君、同じく橋本忠義君も四月五日にカラカンダ地区引揚者菅季治君、同じく山森友太郎君、同じく峰田重吉君、同じく渡部武士君、同じく宇野喬夫君、四月六日にウォロシーロフ地区引揚者瀧澤瀧十君、カラカンダ地区引揚者小島清君、ハバロフスク

鍛冶良作

1950-03-29 第7回国会 参議院 本会議 第34号

以上のごとく、單にカラカンダ地区のみではなく、各地区においても、ほぼ同様の趣旨のいわゆる反動を帰さざるようにとの伝達がなされておることが考えられるのであります。  次にこれらの要請から、日本共産党ソ連地域との間には常に何らかの連絡がとられておると判断できるという点であります。これは次の事実によつて立証できるのであります。

岡元義人

1950-03-29 第7回国会 参議院 本会議 第34号

それはカラカンダ地区における通訳者言葉として、日本共産党徳田書記長が、日本人の人々がよく準備された民主主義者として帰国するよう期待するということを言つておると、言つてつたと、ソ同盟将校語つたと伝えられた問題である。(「ややこしいな」と呼ぶ者あり)分らなければもう一度言つてもよろしい。もう一度言おう。

中野重治

1950-03-24 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第18号

そのときにその本人は、自分が今度東京の方に行くということを誰から聞いて来たかということを全然言わないで、自分がこつちへ出るということを、カラカンダ地区から帰つて来た者に友達がおつて、結局その者がやはり呼出しを食つておるからして、あなたも呼出しがあつたのだろう。だからその本人は十三日までに上京するのだから、それで小島君も一緒に行くのだつたらば私も一緒に行きたいという話で、自分の家に来たのであります。

小島清

1950-03-18 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第16号

一九四九年三月以後そうした各收容所共通通訳としましては、向うカラカンダ地区におきまして、先ず第一に一ヶ月に一遍は生産管理というものをやりますが、各收容所生産成績を調べて、いい收容所は褒める。悪い收容所は叱る。でよい收容所作業成績のいい者は、名前を挙げて褒める。又作業成績の悪い者もやはり名前を挙げて非難する。そういつたような生産管理がありました。

菅季治

1950-03-18 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第16号

証人菅季治君) 要請があつたかどうかということが、そもそも問題なのでありますけれども、私は一九四八年度の帰還の月まではカラカンダ地区の第十一分所におりましたのです。一緒管理下にあつた外の分所のことは全然知りませんです。一九四八年までは大体健康を基準にして帰したと思います。

菅季治

1950-03-16 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第15号

門屋盛一君 大分大きいことでないと証人は答えられないので、これは又小さい質問であると言われるかも知れませんが、私はこの問題は、大体カラカンダ地区久保田山森証人証言と、それから先程委員長から証人に御証言を求められたら、一々名前を出せということであつさり断わつてつたのでありますが、共産党から脱党したいが、拒否するというような点は、これは国民に一連の疑惑を残しておることは間違いない。

門屋盛一

1950-03-08 第7回国会 参議院 本会議 第25号

こうしたときに、たまたまカラカンダ地区の問題のみならず、他の地区にも、二十四年九月の或る朝、イズベストコーツヤ地方ヴルガル分所で、徳田要請の新証明上村宗平氏によつて参議院に送られておる。又三月四日には小俣忠男という最近引揚げて来た人が、沿海州十三地区政治部長チーベル大尉共産党から言つて来ておると、三輪通訳によつて、これと同様なことを言つておるということを参議院に申して来ておるのであります。

淺岡信夫

1950-03-08 第7回国会 参議院 本会議 第25号

それは一九四九年九月十五日、赤軍の政治部将校の一人がカラカンダ地区の第九收容所に收容されていた帰還者に、曾て日本の警察又は憲兵隊に勤務したことのある捕虜若しくは一般人でいわゆる反動的の者は盡くソ連内に無期限に抑留し、共産主義を完全に身につけた者のみが日本帰還せられる機会を持ち得るのであると語つたということである。

淺岡信夫

1950-03-07 第7回国会 衆議院 海外同胞引揚に関する特別委員会 第10号

国民は全員が一丸となつて在ソ同胞引揚げ促進運動に乘り出しておる、あなた方の帰りも近いと思いますという、あるいは兄から、あるいは母から、あるいは自分の妻から届けられたことが、タシケント地区、あるいはカラカンダ地区においてありました。それからソ連の大使館の前における何か引揚げ促進に関するデモと申しますか、こういうようなことがあつたことが一回耳に入りました。

日高清

1950-03-07 第7回国会 衆議院 海外同胞引揚に関する特別委員会 第10号

青柳委員 さらに伺いたいのは、やはり日高参考人の御陳述のうちでありますが、カラカンダ地区におきまして、四八年後半においては拷問が実施せられたというお言葉があるのでございますが、これに関連いたしまして、どういう程度の、どういう方法の拷問が、いかにして行われたかという点について、お尋ねいたしたいと存じます。

青柳一郎

1950-02-23 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第13号

門屋盛一君 主体より大分説明の方が長かつたのでありますが、要するにカラカンダ地区での思想教育の折に、証人は三百人くらいの人が一緒にその思想教育を受けた、そういうことなんですが、そのときにどういう形でやつたかということが問題になるのですが、証人ロ語は十分に分るのですか。

門屋盛一

1950-02-23 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第13号

カラカンダ地区における残留同胞の実情を詳細に証言して貰いたいというのが淺岡委員の発言であつたと思いますが、証人の言はソ連対外政策並びにその引揚遅延、こういうことでありましたので、先のソ連対外政策というふうな問題は、これは單に証人の主観に基くものでありまして、私共としてはあとにこれは参考資料になるかと思いますが、先ず何よりも必要なのは、本日証人を呼んだ核心に触れて行く必要があると思います。

北條秀一

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